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均衡予算定理について その3

このところネットに向かう時間を減らしているので、隔日の更新になっています。

均衡予算定理について検討しています。国家支出を増やしたときに、増加するのは所得ではなく、総生産であるというコメントをいただきました。その意味を考えてみます。

A国-国家が介在しないとき
 生産:米1万俵
 所得:1万両

A国-国家が介在するとき
 国民は、所得1万両の10%に当る1,000両を税金として国に納める
  ↓
 国は、集めた税金を支出して、公共事業を行う
  ↓
 国民が国に納めた税金は、公共事業支出を通じて国民に戻ってくるので、所得は不変
→均衡財政が前提なので、その年に納めた税金はその年に国民に戻ってきます
  ↓しかし
 公共事業で公共建造物が増える
  ↓従って
 生産:米1万俵+公共建造物
 所得:1万両

確かに、国家が介在しないときに比べて、公共建造物の分だけ総生産が増えています。一般に景気が上向くというのは、総生産が増加することなので、総生産の減少が著しいときには(まさに、現状がそうです。)、国家が介在すべきだという結論になりそうです。均衡予算定理がいっていることはそういうことです。税金を納めて、その税金が戻ってくるのだから、国民には損得なしで意味がないように思えるかもしれないが、公共建造物の分だけ総生産が増えるから意味がないことではないのだよという主張です。しかし、ここでの検討事項は、建造された公共建造物の価値を政府支出の額で代替させてよいかということです。より具体的に言えば、1,000両で建設した公共建造物が「麻生太郎の像」であっても、総生産が増加したと喜んでもよいのかということです。

(続く)
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コメント

いつも楽しく拝見させていただいております。

私も経済学は専門ではありませんが議論の種にコメントさせていただきます。
長くなってしまいましたので、参考までにということで、返信コメントはいただかなくても構いません。

まず、後者の場合(公共事業を行う場合)、
1000両の公共事業を行うための、労働力が問題になるのではと思います。

失業者が存在する仮定であれば、1000両の公共事業を行っても、
米を生産する農家はそのまま米を生産し、失業者が公共事業に従事すれば、
確かに公共事業分だけ総生産はアップします。
ちなみにこの場合、農家にとっては徴税により所得が失業者に移転するので、
物価が変わらなければそれだけ貧しくなることになります。
→<ケースA>

一方、農家が農作業の合間に公共事業を行ったとすると、
徴税分が新たな所得として返ってくるので、最終的な所得は同じになります。
→<ケースB>


今度は物価について考慮すると、
合計所得が一定なので、総生産に物価が反比例すると仮定すると、
物価は総生産の増加により、10000/11000=10/11と下落します。

<ケースAの場合>
農家:所得9000÷価格10/11=購入可能な生産物9900
失業者:所得1000÷価格10/11=購入可能な生産物1100
                         合計:11000
と、農家の豊かさは公共事業を行わない前者のケースとほぼ変わらず、
失業者が得られる所得分が経済全体として発展したと言えます。

ただし、この物価の下落は、公共事業により生産された生産物の価値が
本当に11000両の価値があることが条件になると考えられます。
首相像の参拝価値が0だとすると、誰も参拝料にお金を払わないので、
お金はお米の購入のみにまわり、実質の生産物の価値は10000両で、
価格は従前と変わらず、農家は徴税の分だけ貧しくなり、
その所得が単に失業者に移転しただけということになります。

<ケースBの場合>
同様に、実質の生産物の価値が11000両であれば、
物価が下がった分だけ農家は豊かになりますが、
それは、余計に労働した代償でもあります。

そして、公共事業に実質的な価値が無ければ、
物価は変わらないので、得られる生産物は前者のケースと同じですが、
結局、首相像の建設に無駄な労働を強いられただけになります。


つまり、まとめると、公共事業自体に実質的な価値が無いと、
構成員間の所得の調整にはなっても、
社会全体が豊かになるわけではないということです。

長期的な平均を取れば、実質的な価値に基づく総生産が、
社会の構成員の受けられる恩恵(消費)の合計になると思うので、
公共事業をやるにしても価値を生み出せるものをやらないと
無駄な労働を社会が行ったことになります。

ただし、今回の均衡予算の議論からは離れると思いますが、
価値の無い公共事業であっても、
時間的な(世代間の)所得の移転機能により、
景気を調整する機能はあるとは思いますが。

NTさん

詳細且つ有意義なコメントありがとうございます。コメントを参考にさせていただいて、本文記事の考察を続けたいと思います。

私も経済の専門家ではなく、一連の考察は素人の思考の域を出ないのですが、国民の疑問を明確化できればよいなと思って考察を続けています。

国民の疑問を一言でいうと、「公共事業は全体利益を向上させるというのが建前だけど、一部に利益を誘導しているだけではないか?」ということです。

長期的な平均を取れば、実質的な価値に基づく総生産が、
社会の構成員の受けられる恩恵(消費)の合計になると思うので、公共事業をやるにしても価値を生み出せるものをやらないと無駄な労働を社会が行ったことになります。
→おっしゃるとおりだと思います。論理的にはそうなるはずですね。銅像の例でいうと、多くの国民を巻き込んで、粘土細工をしたことになります。

ただし、今回の均衡予算の議論からは離れると思いますが、価値の無い公共事業であっても、時間的な(世代間の)所得の移転機能により、景気を調整する機能はあるとは思いますが。
→経済を発展させるというより、景気の微調整(でこぼこをならす)という機能しかないのでしょう。ただ、その場合、公共事業より減税の方がよいのかもしれません。均衡予算定理からの帰結は、減税より公共事業の方が乗数効果が大きいということだと思いますが、均衡予算定理そのものに疑問があるとすれば、減税より公共事業だという常識にも疑問符がつきますね。



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