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均衡予算定理について その6

均衡予算(乗数)定理について検討しています。

民主党のスローガンは、「コンクリートから人へ」です。コンクリート業界から批判がきたらしいですが、これは一種の比喩なので、むきになって反論するのも大人気ないのではないでしょうか?「コンクリートから人へ」というスローガンは、経済学的には、「国の役割を公的固定資本形成から再分配へシフトさせる」ということでしょう。

均衡予算(乗数)定理は、その年の政府支出を全て税金で賄う均衡予算を前提とした場合、政府支出の分だけ総生産が増える(つまり、乗数が1である。)というものでした。

均衡予算定理に対する批判として、以下の論説を以前に紹介しました。

-----------------------以下引用-------------------
前回は、ケインズ理論の「乗数効果」についての標準的な説明を紹介した。「乗数効果」とは、財の需要が供給可能量まで達しない状態で均衡しているとき(つまり不完全均衡のとき)、政府が税金を徴収してそれと同額の公共事業を実施すれば、総生産が同額だけ増加し、その分追加的雇用が発生して失業が解消し、所得が増加し景気がよくなる、そういうものだった。重要なのは、このメカニズムでは「公共事業の内容は問われていない」、という点である。それこそケインズのいう「穴を掘ってはまた埋める」ような公共事業さえ同額の効果があるように見える。だが、そんな「魔法のようなこと」が世の中に本当にあるのか、とまっさきに疑うのが科学的な態度というものではないか。しかし、この「乗数効果」は長い間問題にもされず、大学で平然と教えられ、公務員試験で堂々と出題され続けてきたのだ。かくいうぼくも、何かおかしい、と感じながらもきちんと検討してこなかったのだから、もちろんこれをとやかくいう資格はない。
ところがつい最近、このことをはっきりさせた論考がやっと現れた。それが第4回で書評した小野善康『不況のメカニズム』であり、その大元になっている学術論文はこれである。小野は、「内容を問わない公共事業」の乗数効果なんかまやかしであり、そんなものは存在しない、ということを論証した。つまり、魔法なんかインチキだ、という「オズの魔法使い的おとしまえ」をつけたのである。小野の議論をおおざっぱにまとめると次のようになる。(詳しくは論文でどうぞ)。
IS-LM理論での混乱は、「お金の流れ」と「実効的な生産」とをないまぜにしている点にある。
前回、「乗数効果」を証明するときに使った2つの式
 [総生産]= [消費]+[投資]+[政府支出]・・・(3)
 [総生産]=[国民所得]= [消費]+[貯蓄] +[税金] ・・・(4) 
を思い出そう。この式では、政府が「税金」を徴収してそれを国民に返すだけで(3)と(4)で同時に同額だけ[総生産]が増える。ここには「その税金で何が行われたか」が問われない。これが、「あたかも無駄な公共事業でも総生産が増える」かのように見えるという詐術の出所なのである。つまり、(3)という総生産を定義する国民会計にバグがあった、単にそういうことなのだ。
このことをもっとはっきり理解するために、次のような思考実験をしてみよう。今、政府は1億人の国民から1人10万円ずつ税金を徴収する。次に、政府は国民に対して、印鑑を持って最寄りの役所に出向けば、「その労働」に対して10万円の報酬を払う、と告知する。するとどうなるだろう。「役所に出向くという労働をさせる公共事業」によって国民に1億×10万円=10兆円の所得が発生する。したがって(3)でも(4)でも総生産と国民所得は10兆円増加することになるわけだ。だけど、よく考えてみよう。ここで起きていることは、国民各自から10万円が政府に行ってまた戻ってきただけだ。実際的な生産物には何も変化が起きていないのだ。これが「無駄な公共事業による乗数効果」のからくりなのである。単に「会計上で、あたかも所得が増えたように見える」だけの話なのである。会計の取り方に致命的な欠陥があるわけだ。(系列会社の間で資金を行き来させて売り上げの水増しをはかる粉飾決済ってのが、このからくりだよね?)

(中略)

ここで注目して欲しいのは、家計が生産に携わった報酬として得た貨幣で生産物を企業から同額で買い戻す構造が導入されていることである。これは、「貨幣所得と同価値の生産物が生産された裏付け」であり、政府部門を考えるときの重要なベンチマークとなる。

ではその政府部門を導入してみよう。
いま、政府部門が税金を貨幣で徴収して(その額を[税金]と記す)、何らかの公共事業を実施し、労働者に同額の報酬を支払ったとしよう。このときの国民の所得をきちんと考えるのがポイントだ。国民全員でみれば、私企業の生産に従事した報酬の分である[生産]と公的部門の生産に従事した報酬の分である[税金]の合計額を貨幣所得として受け取り、[税金]の額を納税するので、差し引きの所得(可処分所得)は結局[生産]と同じである。したがって、均衡は、(7)の水準からなんら変更されない。つまり、企業の生産量は不完全均衡の生産量Y*から全く変わらないのだ。したがってもちろん、国民所得(可処分所得) も政府が公共事業をしない場合の所得だったY*となんら変わらない。ちっとも景気などよくならないのである[*5]。

では、総生産はどうなったのだろうか。私企業の生産した価値Y*に政府の生産物の価値を加えたものが総生産である。IS-LM理論では、ここで直接[税金]の額を加えてしまうから誤謬が起きるのである。冒頭の思考実験で説明したことと同じことが、このモデルでも生じていることに注意しよう。ここまでに記述されているのは、国民から政府に[税金]分の貨幣が流れ、そして、戻ってきたことだけである。ここには、それと同額の「価値」が生産された保証は全くない。なぜなら、私企業部門では、さきほど太字で書いたように、財と貨幣の交換が起きているからいいのだが、政府部門では政府の生産物の国民による貨幣での買い戻しは生じていない。したがって、政府の生産物が、政府の支払った報酬通りの価値のあるものであることの保証はこのモデルには存在しないのである。さきほどの例のような「役所に出向くという労働」程度のものなら、その生産物の追加する価値はゼロとしていいだろう。このとき、国民所得も総生産も増加量はゼロであり、乗数効果など幻にすぎないのである。

---------------------引用終了---------------------
http://wiredvision.jp/blog/kojima/200707/200707241130.htmlより引用

さらに、以前のブログの記事とNTさんからいただいたコメントを引用します。

A国-国家が介在しないとき
 生産:米1万俵
 所得:1万両

A国-国家が介在するとき
 国民は、所得1万両の10%に当る1,000両を税金として国に納める
  ↓
 国は、集めた税金を支出して、公共事業を行う
  ↓
 国民が国に納めた税金は、公共事業支出を通じて国民に戻ってくるので、所得は不変
→均衡財政が前提なので、その年に納めた税金はその年に国民に戻ってきます
  ↓しかし
 公共事業で公共建造物が増える
  ↓従って
 生産:米1万俵+公共建造物
 所得:1万両

確かに、国家が介在しないときに比べて、公共建造物の分だけ総生産が増えています。一般に景気が上向くというのは、総生産が増加することなので、総生産の減少が著しいときには(まさに、現状がそうです。)、国家が介在すべきだという結論になりそうです。均衡予算定理がいっていることはそういうことです。税金を納めて、その税金が戻ってくるのだから、国民には損得なしで意味がないように思えるかもしれないが、公共建造物の分だけ総生産が増えるから意味がないことではないのだよという主張です。しかし、ここでの検討事項は、建造された公共建造物の価値を政府支出の額で代替させてよいかということです。より具体的に言えば、1,000両で建設した公共建造物が「麻生太郎の像」であっても、総生産が増加したと喜んでもよいのかということです。


------------以下、NTさんのコメントから引用-------------
いつも楽しく拝見させていただいております。

私も経済学は専門ではありませんが議論の種にコメントさせていただきます。
長くなってしまいましたので、参考までにということで、返信コメントはいただかなくても構いません。

まず、後者の場合(公共事業を行う場合)、
1000両の公共事業を行うための、労働力が問題になるのではと思います。

失業者が存在する仮定であれば、1000両の公共事業を行っても、
米を生産する農家はそのまま米を生産し、失業者が公共事業に従事すれば、
確かに公共事業分だけ総生産はアップします。
ちなみにこの場合、農家にとっては徴税により所得が失業者に移転するので、
物価が変わらなければそれだけ貧しくなることになります。
→<ケースA>

一方、農家が農作業の合間に公共事業を行ったとすると、
徴税分が新たな所得として返ってくるので、最終的な所得は同じになります。
→<ケースB>


今度は物価について考慮すると、
合計所得が一定なので、総生産に物価が反比例すると仮定すると、
物価は総生産の増加により、10000/11000=10/11と下落します。

<ケースAの場合>
農家:所得9000÷価格10/11=購入可能な生産物9900
失業者:所得1000÷価格10/11=購入可能な生産物1100
                         合計:11000
と、農家の豊かさは公共事業を行わない前者のケースとほぼ変わらず、
失業者が得られる所得分が経済全体として発展したと言えます。

ただし、この物価の下落は、公共事業により生産された生産物の価値が
本当に11000両の価値があることが条件になると考えられます。
首相像の参拝価値が0だとすると、誰も参拝料にお金を払わないので、
お金はお米の購入のみにまわり、実質の生産物の価値は10000両で、
価格は従前と変わらず、農家は徴税の分だけ貧しくなり、
その所得が単に失業者に移転しただけということになります。

<ケースBの場合>
同様に、実質の生産物の価値が11000両であれば、
物価が下がった分だけ農家は豊かになりますが、
それは、余計に労働した代償でもあります。

そして、公共事業に実質的な価値が無ければ、
物価は変わらないので、得られる生産物は前者のケースと同じですが、
結局、首相像の建設に無駄な労働を強いられただけになります。


つまり、まとめると、公共事業自体に実質的な価値が無いと、
構成員間の所得の調整にはなっても、
社会全体が豊かになるわけではないということです。

長期的な平均を取れば、実質的な価値に基づく総生産が、
社会の構成員の受けられる恩恵(消費)の合計になると思うので、
公共事業をやるにしても価値を生み出せるものをやらないと
無駄な労働を社会が行ったことになります。

ただし、今回の均衡予算の議論からは離れると思いますが、
価値の無い公共事業であっても、
時間的な(世代間の)所得の移転機能により、
景気を調整する機能はあるとは思いますが。
--------------引用終わり---------------

均衡予算定理は、マクロ経済学の教科書や公務員試験のテキストに必ず載っています。繰り返しになりますが、均衡予算定理の帰結は、税金を徴収して、同額の公共事業をすれば、常に(別の言葉で言えば、公共事業の内容は関係なしに)、政府支出の分だけ総生産が増えるということです。公共事業の内容は関係なしに、とにかく支出すればよいというのですから、政治家のレベルは低下し、役人は予算を使うことだけに熱中する(予算を使えない役人は、無能呼ばわりされる)と予想されますし、現にそのようになりました。

国民は、そのことに怒り狂い、民主党は再分配重視型の政策に切り替えたわけです。この再分配重視型の政策は、成長戦略がないということで、投資をしている人には概ね不評のようですが、均衡財政の維持という観点からすると、財源を税金に求めずに、国債を乱発していることに大きな問題があると思われます。

ところで、公共事業を捨てて再分配重視型の政策に転換するのであれば、意味のある公共事業はないことを証明する必要があると思われますが、この点はほとんど議論されていないようです。前記の小島教授の論説と小野教授の著作「不況のメカニズム」で引用されていたケインズの言葉を参考にして、「意味のある公共事業があるとすれば、それは何なのか?」について検討してみたいと思います。

ケインズの言葉:デフレ下において有用な公共投資は、金の採掘である。(注:当時は、金本位制であった)

(続く)
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